よんな~便り

ひっそり活動継続ブログです

大きな一歩になってほしいと願う

 

 

 ふぅぅぅ、もうしっちゃかめっちゃかなこの世界。

こんなに人々の根っこ部分をひっくり返し、そしてさらすとは…。

と、毎日、気が付けば同じことをつぶやいている。

 

 

さて、先日玉城デ二―知事が「美ら島 にじいろ宣言」を発表した。

それをみた私の最初の言葉は「コロナ禍でも動いているんだな~」で、

デ二―さんだから出来たことだよなとおもいつつも、熱が低い平たい気持ちだった。

 

にじいろ宣言は大きな一歩です、宣言を聞いたセクシュアルマイノリティの私の気持ちはもっと上がるはずだけど、

最近の私はニュースなどに出るデ二―さんに拒否感があるのですw

特にこの一年半くらい?彼の話を聞くたび、「はぁ?わからん、結局何もしないのか?何言ってるんだか…」ってね(本当はもっとひどい言葉を吐いていること多し) 特に新型コロナ対策や感染爆増に対し科学的な説明が無いままのメディア発表は、私のメンタルを痛めつける。

 

にじいろ宣言も感染症対策に関することもデニーさんだけが決めたのではないし、それぞれ別の件だ。わかっている。でも、ごちゃごちゃになるくらいヤられている私なのだ。

 

気持ちが上がるはずの知らせにも、身構えてしまう私。きもちがよくない。

 

で、この拒否感や嫌だなって気持ちが何処から来るのか…と考えてみた。

 

はぁ~ん、なんか全体(社会)にかけられた網というか、何か囲うものがあるような、変な感じするんだよなぁ…だから、それぞれの件は別では無いような気がしている。

 

改めて「美ら島 にじいろ宣言」の記事を読んでみた。

ああ、なんかヤだな…文中の「多様性の」という言葉の乱発がザワザワさせる。

そして宣言の中にも新聞の記事にも書かれていない「性自認性的指向(あ、この言葉は「指向性別」の方がしっくりくるよ!と思います)」という言葉。

そんなに避けたい言葉なのか?と不思議です(怒)。

 

性自認も指向性別も誰にでもあるのに、その言葉に触れないって変じゃないか?

異性愛中心の社会で生きる異性愛の人々は「多様な性」ってどう捉えているのかなとも考えました。

 

最近の新聞記事では「多様な性」の乱発による『ふんわり仕上げ』が目立つ。

直に触れずに承知させる意図にかんじるな。

 にじいろ宣言の文面の「多様な性」はLGBTセクシュアルマイノリティを指す言葉として使っているように受け取れるのだけど、このふんわり仕上げが、せっかく大切なことに向けようとする目を曇らせてしまっているのだ!とイラッとする。性に対して向き合う気持ちが無いな。

 

そしてこのふんわりが変形して<ふんわり仕上げのバリア>ができてしまったのかもしれないと思った。

今、メディアの姿勢で<市民が推しているものに対しては、おかしいと思うことがあっても突っ込まない>という暗黙の約束があるよなぁ。それがバリアかもな。

 

私はデ二―さんに頑張って知事を続けてほしいと思っているけれど

これまでもメディアはデ二―さんに対して(感染対策絡みとかで)突っ込んで聞かないもんなぁ、感染者が激増しても何も変わらない報告(記者会見)を記事として載せるだけ。

 

ふんわりなのにとってもきもちがよくないw

 

うーむ、そしてこのふんわりバリアは沖縄だけではないよな。

 

このバリアはいつになったら破られるのか…

 考えはじめるとあれこれ浮かんでしまうw

あらら、そればかり考えてる時間は無いよ

洗濯だってしなきゃだしご飯の支度もせねば。

 

何だかモヤモヤする気持ちは晴れないけれど

今の社会に気持ち悪いバリアがあるんだわ!という思いを書けたから良しとしよう。

 

と思ったけれど、ちょっとやっぱりモヤるなぁ

宣言が出た日のタイムスの記事、最後のほうに書かれてあった文章↓

 

はたくさんの色を含むことから性の多様性の象徴とされ、当事者の誇りを表現するものとして知られていることから、宣言の通称に「にじいろ」を盛り込んだという。>

 

レインボーフラッグを掲げてパレードした私は、

あらら~やっぱりヘンだよねとつぶやく