実家に顔を出して来たよと、妹が届けものを持ってうちへ寄ってくれた。妹は子供達を連れて、週一回は実家へ行ってくれる。 実家は、両親と弟が暮らしている。 私は、半年に1度行くかなぁ…と、いうくらい行かないのでした。 電話も一か月に一度するかなぁ… 両親ともぼちぼち元気でいる。
でも80代の2人、かなり衰えてきてる。
妹からの伝え聞いた内容でもそれがわかる。 今日は、しんどい話を聞いた。 父親のことだ。 妹が「またちょっと痩せたみたいだったよ」 そして「本人が、後2年も生きられる気がしないと言っていた」と。 具体的にそんなことを言うようになっているなんて、ちょっとショックだった。でも、つい先日調子が悪いと訴えて色々検査をしたばかりで、その結果は、問題なしとのことだったが…
変化していくのを受け止められずに沈む気持ちなのだろうと、ぼんやり思う。
私でも、自分の老を感じるもんなぁ 両親の歳まで生きてる自分が想像ができないw
無理がきかなくなってきた身体に、この先どうしよう…と不安になる。生きるために受ける透析治療も今は対応できているけれど、どんどん厳しくなっていくのだろう…。
我が家は、彼女が家計を支えているのだが、パートナーだって同じように歳をとるし、いつまでも仕事ができるわけじゃない。彼女が正社員で働いていても、私達には守られるような制度は無い。 目の前に迫ってくるハードル。
世間では、やっと私たちの存在が顕在化してきて、サポートする体制を考え始めた。
けれど、現在のLGBTを意識する流れも、もう少しすると停滞してしまうだろう。
あちこちの地域で、運動の種が芽を出し、花を咲かせ、小さな実をつけたけどね。
全然追いついて来ない。現実は厳しい。 パートナーシップ制度とか条例とかでは全然なのだ…
私の心配の一つ、それ(現在の条例や体制)をすることで「やった感」になってしまいそうな感じがするのだ。
ああ、今日のブログも病みの様相が濃くなってしまった…
前回のブログ記事でも書いたけれど、
多くは、外から入ってくるネガティブなことが要因になるんだけど、 今回じわじわと侵食してきている元は、溜まってた新聞をチェックしていた時見つけた記事だ。 琉球新報の『未未来へいっぽにほ』というコラム そう、あれで傷ついたんだな…。
もう細かく覚えてないが、
コラムでは、ある中学校での「性の多様性」をテーマとした講演会を取材した文章(記事?)を取り上げていて、その中で、メディアのインタビューのあり方を問うていた。
取り上げた文章の中で、生徒の感想は、<性の多様性がわかった。LGBTの人がいても友達として接していける>というようなサポーティブなもので生徒の感想は本名・年齢も記事にした文章であったと。
そして、マイクを向けられた生徒の中にも当事者はいるだろう、マイクを向けることで非当事者の立場にさせ、本心とは違う気持ちを答えさせているかもしれない。
マイクを向けた子供が当事者かもと思わない記者、そして読者も…想像力の無さにゾッとしたと語られていた。
私も、その危うさは同じように感じる。
インタビューを受けるとき、ああ、こう言ってほしいんだろうなぁと思うことがたくさんあった。ほしい答えを促すように感じるから用心するのだけれど、子供たちには回避、きびしいだろうなぁと思う。答える側に立って質問する姿勢が必要だと思う。
ここまでは、まぁそうだねと思えたのだけれど、最後の締めのくだりにひっかかる。
学校でこの話題には絶対に触れてほしくないということではない。
しかし性のことは高度なプライバシーでありそっとしておくべきことだとも思う。
ガーーン
私の感想は、憤る気持ちを越えて脱力感や悲しさだった。
セクシュアルマイノリティの中でも、同じような意見の人はいる、
多様な意見を尊重しなきゃだし…しかし、がっくし。
最後は、当事者の存在を常に意識しながら教育・報道のあり方を考えてほしいと
くくられていた。
このコラムのような語りを見ると、やっぱり世間はこういう感じなのだなぁと。
正論風の圧力を感じてしまう。
講演会に勉強会は大事だと思う。きちっと説明を聞くことの大切さとか、当事者でもあいまいだったり、知らない知識を受け取れるのだから。
そして当事者が公の場でそれを伝えることはもっと大事で、しんどいことでもある。そのしんどさを越えて切り開くことで意識が芽生えるんだけどなぁ
データや本を読んで感じ意識するのとは温度が違うと思うのだけどなぁ
砂川さんの講演について行った先での体験を思い出した。
100人以上来たかな あの講座
砂川さんが学生時代のしんどかった話をしていたとき
私の隣で聞いていた女性の肩が震えているのに気付いた。
講演が終わって声をかけたら、その女性の兄が、ゲイであることを話してくれた。
「兄が、そうだとわかった時、家族のだれも兄の側につかなかったんです…」と言って真っ赤になった目から涙があふれておちた
そして、「私も理解できない(きもちわるいとか言ったかもと)という感じだった」
「今回、職場で講座があると聞き、本当は気が重く来たんですけれど…砂川さんの話を聞いて私は、兄に酷いことをした」
「どんなに辛かっただろう」「今なら…」と嗚咽している彼女に、私もつたわってくる気持ちに半泣きしながら、その後お兄さんとはどうですか?と聞いてみたら、連絡は取っていて普通に話しています。だけど、そのことには触れていませんということだった「謝りたい」と。
ああよかった。まだ繋がりがあると思いました。
だから、無理にその話題に触れなくても、大丈夫。あなたのふるまいを見てればちゃんと伝わるはず。無理はしないでね。
機会を見つけてあの時ごめんねと言えればそれは素晴らしいし、といったっけか。
この経験は私の宝物で原動力で支えです。
必要なんだよね切り開く行為。
はぁぁ。気分を上げたいよなぁ
こんな時は、映画をみるといいはずよね↓近いうち観よっと 「パレードへようこそ」(2014年・イギリス) 「ジェンダーマリアージュ〜全米を揺るがした同性婚裁判〜」(2014年・アメリカ)
もっとスピードあげてそこまで辿りつきたいなぁ~