よんな~便り

ひっそり活動継続ブログです

プライド月間に思うこと

まとまりなく長くなってしまったw

砂川さんのメルマガに載った文の長いバージョンみたいな

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6月はプライド月間。セクシュアルマイノリティが胸を張って生きることを祝う、世界的にレインボーフラッグがはためく月です。

でも、日本では、人権平等を軽視・無視する人達が作った『LGBT理解増進法案』が通ってしまう酷さで、私たちの生きる気力が削がれることに…。覚めない悪夢というか…。

 

悪夢はひどさを増して、まさかと思うことが起きています。一部の女性達(その人達は自分達はフェミニストだと言っている)からのトランスジェンダーへの公での言葉の暴力。その動きは家父長制を良しとする人達と合流して、セクシュアルマイノリティを叩く。今はトランス女性がターゲットだけど、シスジェンダーレズビアンにまで及ぶのだろう。そしてこのヘイトが、言葉の暴力にとどまらず、実際の動きに繋がるのを私は恐れている。「自分達はフェミニスト」と言っているヘイターは、「トランス女性から女性を守る」と声を荒げて脅す。

 

私は、「頭がおかしくなったのか?フェミニストってこんなだったか?」と思った。でも、私はやっぱりなぁと言う思いもあった。

昔、何度か行ったフェミの講座を思い出すのだ。そこではシス女性のことしか語られず、女性対男性の構図だった。その時の私は、いわゆる『女性』の性自認を受け入れられていなくて…でも、その講座では女性が抑圧されていることやジェンダーバイアスについてや人権、「社会的に平等だ」と伝え学んでいるのを見て安心したものでした。だから講座の後はエンパワーされつつも複雑な気持ちを抱えたままでした。

なので、もしやいつか、この二項軸でしか語らないフェミ(たち)は、私を排除するのではないかと不安を持っていました。その気持ちを持ちつつ心の拠り所とする…それは悲しい思いです。

(幸い私はその後、素敵なフェミニストの皆さんに出会い、安心安全な場所を見つけ今があります。)

 

なので今回のこの動きも、恐れていたことが来たと思いました。そして、この行動の先にはこのフェミニスト(たち)も自分の首を絞めることになるだろうに…とも思っています。

こんなにはっきり現れて来たバックラッシュ。どうしたらいいんだろう

 

私としてはこの10年で、セクシュアルマイノリティに対する環境改善が進んで来たと言う実感、あったんだけどなぁ…と毎日ため息が出ます。

そんな中でも、福岡の同性婚訴訟の判決。「違憲状態」という形でモヤるけれど救われました。

世界のあちこちで開かれるプライドイベントの様子にも勇気づけられたし。

そしてたまたまネットで目にした記事、福岡県古賀市の市庁舎に掲げられた数々のレインボーフラッグ、その様子を見てあゝ良かったやっぱり進んでいるんだと安心しました。

 

社会は動いているんだ!とうれしく思いました…いやいや、思いましたじゃなくて、こういうことは伝えなくては!

と、私は古賀市のHPのご意見/ご質問の項目を見つけメールを送りました。こういう行動は地味だけど大切(砂川さんから学びました)

 

古賀市のLGBTQ+へのサポーティブな行動に対してありがとうを伝えるメッセージを書きました。バックラッシュで心病むプライド月間に、古賀市の行動に勇気づけられたこと、そしてその方針をこれからも行動で示してほしい、と。

 

それと一つ引っかかったことも伝えました。

それは、書き込んだご意見/ご質問のフォームに性別記載があったことです。男女で表示され選ぶものでした。なので、<その他>を増やすことができると思います。それより、性別の記載は必要なのか?と、検討してほしいと書きました。

すると早速担当の方から返事がありました。以下内容を

 

<市の取り組みをご覧いただきましてありがとうございました。

今後とも「だれもが自分らしく生きていける社会」の実現に向けて多様性の理解促進に向けて努めてまいりたいと思っています。>

 

それから指摘した件には、<当市では平成30年度より、国勢調査に代表されるような国・県における統計調査や、アンケートの趣旨から特に必要とされる場合を除き、アンケート調査においては、原則として性別欄を設けないこととしております。今回ご意見をいただきました古賀市公式ホームページ上の「各課へのお問合せ・ご意見」のフォームにつきましても、この方針に準じ、性別欄は削除することといたしました。貴重なご意見、ありがとうございました。>

とのことでした。ああ良かった~伝えてよかった。

 

そして私でも何か出来るんだと改めて思いました。

LGBT理解増進法』で見えた病み。バックラッシュで噴き出した膿のおかげで見極められたこともあった。

私たちの存在が完全にそこにあるということ。