よんな~便り

ひっそり活動継続ブログです

なんだかんだで〜4月28日に思ったこと〜

 

 

いや〜 久しぶりにログイン出来ました。PCが古くって変になっちゃって触るのが億劫に…

その間、はてなブログのパスワードも何だったか忘れてしまうという。気持ちが向かわないとソッコーで記憶が消えてしまう傾向にある私でございます。

前回のブログ記事からどのくらい経つんだろう。

ぼちぼちでまた書ければいいなぁと思っています。

今日は先日砂川さんのメルマガに掲載された文章をこちらに。

ちょっと足したこともあります

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4月28日に思ったこと

 

あゝまたこのイヤな響きが目に耳に入ってきた。ニュースの項目に「屈辱の日」というタイトルが並んでいる。

私は、この「屈辱の日」報道に違和感を感じています。

夕方のローカルニュースで「今日4月28日は『屈辱の日』です」「1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し敗戦後、米軍統治下にあった日本が主権を回復した一方、沖縄は日本から切り離され、米軍統治化に残されました。」と説明があり、続けて「屈辱の日と呼ばれるこの日から71年経ちましたが、日本におけるアメリカ軍専用施設の70.3%が置かれた沖縄の過重な基地負担は変わっていません。」と言っていた。ここ数年子の報道を う〜む、知らなかった。私が学生の頃は平和教育も盛んだったのに、「屈辱の日」という言葉は一度も聞いたことがなかったなぁと思うのです。

 

実は私が4月28日が「屈辱の日」と呼ばれていると知ったのはピンクドット沖縄の活動をしている頃です(なので10年くらい前か?)

地元新聞に太文字で屈辱の日と書かれてあるのを見たときです。ギョッとして、気持ち悪さと怖さに襲われ吐き気がするほどでした(今でも同じく反射的に吐き気が…)

 

基地反対の県民大会のことを取り上げていた記事でした。「屈辱の日」すごく攻撃的な言葉だと感じました。私は県民大会に一度参加したことがありますが、その時には「屈辱の日」なんて言葉は聞かなかった記憶です。

調べてみると、<サンフランシスコ(対日)講和条約が発効した1952年4月28日について、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)は61年4月8日の第3回定期総会で「屈辱の日」と呼ぶことを決めた>とありました。でも、その後「屈辱の日」は浸透しなかったのだと私は思いました。

 

私の記憶(感覚w)では「屈辱の日」が広く知らされるようになったのは、翁長雄志氏(那覇市長の時)が基地反対運動を活発にするようになったことが大きいと思っています。

翁長氏が東京でオスプレイ配備の抗議行動でパレードに参加した際に「売国奴」「琉球人は日本から出て行け」という罵声を浴びせられ憤慨した件がありました。沖縄に対する罵倒を知った県民の怒りは頂点に達し連日その話題が取り上げられていました。

ゴリゴリ保守の翁長氏なのに、東京で受けた酷い言葉。「衝撃を受けた」とインタビューに応える翁長氏…

それを聞いた県民(翁長氏反対の人たちも)が、翁長さんも同じ悔しい思いを味わったんだなと悔しさを共有できたことで、運動が盛り上がったと思います。そこで「屈辱の日」という言葉が甦ったんだと思いました。その後、翁長氏はウチナーンチュアイデンティティーを全面に出して県知事になりました。あんなに敵対していた人たちが翁長氏こそが私達の言葉を伝える人だ!平和を願う人だと。一枚岩という表現もよく使われるようになりました。

ウチナーVSヤマト色が強化されてしまったと思います。毎年4月28日は「屈辱の日」と、メディアで取り上げられるようになってしまいました。

「屈辱の日」

私はこの言葉は使いたくありません。「屈辱」という言葉の意味を調べても違和感だし、その言葉が今の沖縄が置かれている状況に合うのか?と素朴に思うし、民族主義を煽る言葉になるのではと思うのです。

掲げる言葉は力を持つ、慎重に考えなければいけないと思うのです。

 

追記

2013年の4月28日、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典を政府が開催、抗議大会として「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」と新聞記事を見つけました。私の見たのはこの記事だったんだなぁ

 

再会

 

 

ピンクドット沖縄、10回目!継続していてよかったなぁと思いました。

ゲゲッ 10年ひと昔ってか!?と思いました。そんなに回数重ねたか?と思ったら、コロナ禍で2回はオンラインや室内での開催だったので、ほぼクローズドなわけで、なので私の中では、8回の感じだったのです。

 

今回、屋外でオープンに開催されることの重要性を痛感したのでした。

県内初のプライドマーチが行われて良かったと思います。

 

プライドイベントがオープンに開催されるのが重要というのは、「外側へのアピールを考えたとき見えやすい伝わる」と言うだけではありません。

開催する側の意識や姿勢を見つめなおす機会になるからです。「自分達は注目されている」ということを意識しなくてはならないから。

それを実感できるのがオープンなイベントと思います。反応が直に伝わる場です。

その反応をキャッチできるような感覚が求められると思うのです。

だからすごくプレッシャーもあるし、感覚は実行委員メンバーも共に持っていなければ務まらない。

そんなピリピリのヒリヒリな緊張感で臨んでイベントが無事終わっても、反省する事柄はたくさんありました←実体験。

ワイワイ集まりお祭りとして楽しいだけではない、社会を見る厳しさと意見を持たなければプライドイベントは出来ないからです。その意識が薄れるとイベントは消えてしまうでしょう。

 

もしかしたら、プライドイベントが商業的なイベントの一つとして生き残るかもしれないけれど、それはひどくさむいものになるだろうと思います。

 

特にAllyが主催するイベントと打ち出しているピンクドット沖縄は、向けられる目がより厳しさを増します。なので、実行委員のみなさんは相当な覚悟がいると思います。

続ける厳しさもあるけれど、行動することで生きやすい世界は広がっていくと思います。

と、今回あらためて感じたこと思ったことを書きました。

 

ピンクドットで久々に那覇まで出かけ、友人に会いました。半年前は身体の痛みで歩くこともままならず、死を考えた私が、参加できるなんて奇跡的だとおもいました。

そして、会えなくなった人のことを思い涙がこぼれました。

砂川さんは多くの友人を見送ってきたんだなぁ。背負うものは多きいだろう、どんなにしんどくて心細くもあるだろうと思いました。それでも折れずに歩みを止めない。

砂川さんありがとう。

 

今回、いろいろ気づくこともありました。意識や姿勢のことを書きましたが、それを行動に移せる人は素敵だということ。私もそうなりたいな。

 

 

はーぎしまー

 

安倍氏が銃撃事件で浮かび上がったカルトと政治家問題。

私は、宜野湾市男女参画推進条例案のことを思い出して、ハーギシマーしている。ちなみにハーギシマーとはイラついて歯軋りするくらいの様子。

あの時、「人権」意識を持った人たちの負けを見せつけられたのだった。悔しかった。

 

はじめに出された条例案は、ダイバーシティを意識していた。

セクシュアルマイノリティの人権も考慮したもので、時代に合ったものだったが、条例を審議する際に待ったがかかった。

反対意見を出した議員らは、旧統一協会系の思想を持っていた。

持っていたといえるのは、その人達が反対意見として述べた内容がおもいっきり教義と同じだった。なので、応援してもらっただけとか、祝電を出しただけとか、信者ではないとか言っても、嘘だろと。

あーあ、最低だったなぁ…そういうバックがついている議員たちがウヨウヨいるだなんて実際目の当たりにしたとき、目の前くらくなって頭クラクラしたなぁ

 

この件で新聞メディアの追求はちょこっとあったが何だか弱腰で、切り口、攻め方は毎度の型。政府、行政に対して文句言う時ってどの問題に対しても同じ感じのお決まり文章で書かないと叱られるんだろうか…とw。

しかし、そのちょこっとがんばったニュース、<宗教団体からの組織的な政治介入>とか、<カルト教団に歓迎されてる議員の様子>までは報道していた。が、市民は関心を持ってないなと私は感じていた。

ニュースが流れても、「議員と宗教とズブズブな関係!」って感じで下世話なユンタクネタになりそうなものだけれど、話題に上ることすら無くなっている様子だった。

浦添市の議会でも同じような議員がいるのも周知されている。それだって同じように一部の関心ある人以外は問題視されないんだろうなぁと思った。

 

だから今更、政治家が殺されて浮上した<カルトと政治家、政治が蝕まれている!>という情報を見聞きしても私は当たり前だろ、あれは宗教ではないしw安倍氏や中央の国会議員とかだけじゃないしさ、全然驚かない。

カルトが政治に絡んで来ている怖さは、条例案が酷い言葉で拒否され、ひどく改定された時に見たし。

背筋が凍る思いしたし、まさにバックラッシュの流れを実感した。社会がサポーティブになって、私達の人権を平等にしようとすればバックラッシュが起こることを想像する。それを想像して怯えないセクシュアルマイノリティ―っていないと言い切りたくなるくらい深い闇なのだ。

私達に一番近い議員が運動員なのだから、毎日安心して生きられるわけがない。

 

 

沖縄は知事選挙前、候補者予想でおもいっきりズブズブの関係の人も名前が上がっていたのでマスコミは事実を知らせず選挙報道するのか?とジリジリしていた私。

よかった ちょこっと報道はありました。

動画貼り付けが出来なかったけれど、URL記録しておきます

http:// https://www.youtube.com/watch?v=FYvlFVPFDQs i

 


 
 

ずんだ餅

 
 
明日はずんだ餅を作ってみよう。

 

沖縄ではメジャーではないから作ろうと材料を買った。
と言っても、鞘付きの枝豆くらいw。餅は買い置きがあったし。
 
昨日そう書いた。果たして上手いこと出来たと思う。そんなに数多く他所で食べたことないから比べようが無いけれど。家でつくる初チャレンジで美味しかったのでよかった。調子に乗って連続で作りそうだな。
 
ずんだ餅、前は苦手だった。最初に食べた記憶がよくなかったんだなぁと今は思う。銀平さんのおかげでずんだ餅を食べる気になったし、自分の中の一つ美味しい食べ物が増えたのだ。人との出会いで味覚も影響を受ける。美味しいもの探しが得意だったもんな…ありがとう銀平さん。
 

 
 
 
22.8/5

わたしの闘い

舌咽神経痛③

 

週始めの透析日、回診は無く息子医師も来なかった。

良かった。

担当看護師も耳のことは聞かなくなった。

良かった。

発作も来ず

良かった。

医師らに対するモヤモヤや怒りは消えないが、長年病気と歩むとこんなもんだ。自分のことを他人に決定されるという危機ばかりw 

まさに危機だなぁと思う。その時どうやって自分を保つか…試される。

今まで正気で生きて来られたのは、「自分がどうしたいか」とその都度考え、それを決めてきたからなんだ…と、今回あらためて感じた。

そしてもう一つ思うのは、危機のときや立ちはだかるものに私が抗っている際に現れるサポーターの存在。

今回は私の症状を聞いて伝えてくれた看護師、看護リーダーからの脳神経科のサジェスト。暗い手探りの状態に光をくれる存在、そんな人たちに会えていることだ。救いの手を差し伸べられているのだなぁという感覚がある。

 

そんなこんなで気持ちも前向きに修正でき、迎えた2回目の透析の日。透析中、私の元へ医師がやって来た。私がこの件で相談したかった医師だ。そして「耳鼻科、どう?行ききましたか?」と尋ねた。…私は行っていないこと、耳鼻科には行く必要が無いと思っていることを機械的に伝えた。裏切られてきた感の私には、気持ちを込めて説明するってもういい加減ナンギなのよ。

すると「ああ、でもね、先ずは耳鼻科に行ってもらってそこで診察結果が出ると思うから、その結果次第で脳神経科へ行くのが…」とかなんとか言う医師に、もうウンザリ、テキトーにあしらってやり過ごそうかと思いはじめた私。

でも、それでは相手の思う壷だ。(どんな壺よ 苦笑)

先ずは耳鼻科に行くと何がどう良いのか?私が行きたいのは脳神経科で、いろいろ調べて症状もその疾患が起こる年齢や性別もピッタリあっていると言った。が、それでも医師は耳鼻科へと説得してくる。それも強めにw 確かに医者の言うその順番がセオリーだろうねと溜息が出る私。実際、「それがセオリーなんでしょう」と嫌味で言ってやった。

 

きっと私の訴えを聞いていても、医師は書かれてある<舌咽神経痛は非常稀な疾患で発症率は10万人あたり0.2~0.7人程度>だからと、頭にあったのではないかと思う。

 

確かに耳鼻科へ行きこの病気が発見されることもあるようだけれど、結局は、耳鼻科からの指示で脳神経科へ行くことになるわけで。

だから無駄な労力とお金は使いたくないことを医師に説明した。そして「だから耳鼻科へ紹介状書いてもらいましたが行きません。脳神経科へは直に行けば良いし、受診には必ず紹介状が必要では無いでしょ、症状を伝えれば診てもらえると思っている」と答えた。頑なに耳鼻科受診を拒否する私に「そこまで言うのならわかりました」とちょっとキレ気味になった医師。そして「そのくらいの熱意で自分のことを伝えられるなら、向こうの先生も見てくれるかもしれませんね」と吐き捨てる様に言った…

残念だなぁこの先生は話せる人だと思っていたのになぁと悲しくなったが、最後に聞きいておきたいことを思い出した。

息子医師が私に言ったこと、「〇〇先生も「とってくれない」という意見です」というのは本当かどうなのかと。尋ねたらしっかりうなづき同意見ですと言った。あらまぁ…と思ったけれど、残念という気持ちは全然なかった確認もとれてキッパリな私。それまでベッドサイドにしゃがみ込んで話を聞いていた医師は、話も決裂した形で終了という感じで立ち上がった。

 

しかしその時一瞬空気がかわった(様に感じた私)

 

医師は「もう一度、症状と経緯を聞かせてもらえる?」と。

ええ~、しんどいんですけど私。

「ごめんなさいね、もう一度、この痛みが出たのは…?」と医師。

もう何度も何人もの人に伝えて来たので、時系列でサクサク言える自分がいた。可笑しいと思った。平常心で、ハイハイつきあってあげますよという感じだった。で、「以前このことは担当看護師に細かく伝えてもらいましたよね」と嫌味もつけ加えて言ったけれど、医師そこは無視しやがったw

 

サクサク話す私に神妙な顔で聞き、ウンウンとうなづく。そして今度は「脳神経科へ行ってもいいかもしれません」と来た。

はぁ? お前、何分前の話だよ…と思った。決裂したよな?と絶句。患者は翻弄される。

患者(私は)は、何度も訴えたよ、一人一人に。医師らが聞くのは、たいてい一度。すり減るのは訴える側、困っている側、弱い側…。わからせるために身を削る。

 

この理解者の医師に(もちろん嫌味ですよ)

「はい。もちろん脳神経科へ行きますよ」と答えた私。理解を示した医師は、話を聞いて希望をわかったと伝えたことで、こちらの姿勢が和らいだと思ったのか、どこに行くか決まったら教えて下さいねと笑顔で軽く言った。「行く前にですか?それはどうだか…、でも、行ったならば報告はします」と答える私に、医師の表情は曇り「それは寂しいですー」と言った。げぇ、なにこれ、冗談じゃないよ。ほんとしんどいだってばと思う私でした。

病院側は紹介状を出して無いと、受診した先の病院から診察所見の返書が直接届かないはずなので、困るんだよね。でも私の脳神経科受診の訴えはスムーズに届かず放置状態で、心も疲弊したんだもの、閉ざすでしょうに。

で、理解者の医師(もちろん嫌味)に「今また話をした上で、私が耳鼻科に行くことは妥当かどうか?なぜ耳鼻科から脳神経科へ行きたいという相談を望んだ時、指名までしたのに聞いてくれなかったのか?」と聞いてみた。

医師は「行くなら脳神経科だと思う、ベッドサイドに来られなかったのは、その日急遽帰らざるを得なかったの」と。

あ、そう と思った。私の気持ちはシーーン。

落ち着いている私は、今としかく自分の必要なことをオーダーするのが得策と考えた。相手が介入したいことと自分の得なことを考えて、紹介状を即刻書かせようと思った(紹介状の依頼は2、3日かかる)

 

どこを受診する病院は決まっていないと言ったが、「もう受診する病院は決まっていて、予約済み」なのだと伝えた。

一瞬で考えている中で、医療提供側と受ける側、お互いの信頼が無くなったら情報も共有できないよねと。で、この前亡くなった患者を思い出していた。訴えるも疲弊して「自分のことはこいつらには教えん」と言っていたなぁ 私には「しんどい、毎日寝るのも怖いんだ」と言っていた。この患者の思いを胸に持ちながら理解者の医師(嫌味です)に、紹介状は即出せるかと聞いた。すると、即出せるという。

で、私は脳神経科の名と明日受診予定だと伝えたのでした。

理解者の医師(嫌味)は受診が明日ということに驚いていたが、病院の名前を聞けて「あの先生のとこなら検査してくれるはず」と、明るい声で言った。疲れた私は透析中寝てしまい目を覚ましたらオーバーテーブルの上に紹介状が置かれてあった。

 

 

 

わたしの闘い

舌咽神経痛②

 

医師達に幻滅したけれども、自分が強くなっていることを実感した私。

さてどこの病院に行けばいいか…

以前から透析絡みの定期検査(病院からのオーダー)でMRIを撮ってもらっている脳神経外科へ行こうかなぁと思いつつ、息子医師らの「とってくれない」発言が嫌な感じで影響する。

ネットで舌咽神経痛を見てくれそうな病院を探す。

出来れば透析をしていても受け入れてくれそうなところ(透析治療を受けているということで受け入れのハードルが上がったりするのです。トホホ)

でも、第一にはまず検査をしてくれるところだ。私は、情報通ではないのでwこういう時しんどい。地方でそれも沖縄なので、ネットでイイ感じの病院を見つけても、海を渡らないといけないというケースも多く…(行けないっつーのトホホのホ)

 

モヤモヤを抱えたまま週三回の透析には行かなくてはならない。

その日の担当看護師、耳鼻科のことは聞いてこなかった(苦笑。良かった)

少ししてその日の看護リーダーがサッとベッドサイドに来た。私とよく話をする看護師で、「耳、行ったの?」と聞いてきた。はぁ?おまえが聞くんか?と思いつつも「行かないよ」と答える私に被り気味に「○○、いいかもよ」と言った。続けて「この前揉めてたでしょう」と。息子医師とのやり取りを見ていたそうで「○○ (いつも検査オーダーしている病院)より、そっちが良いと思う、あくまで私個人的な意見ね」と念を押した上でアドバイスをくれた。勧めてくれた病院は、私の探してあった病院の中の一つだった。この病院のHPの中に院長のブログがあるのを見つけ、その中に舌咽神経痛についても書かれてあるのをチェックしていたのです。

 

ありがとうと、私もその病院が気になっていたと伝えると、その看護師自身が頻回に起こる頭痛で受診していたということだった。ササッと検査して原因をはっきり知りたかったからと言っていた。その病院はMRIを撮りそれをもとに診察説明するスタイルだと教えてくれた。

確かに病院のHPにも書かれてある。私はその看護師のおかげで、実際受診した人の話を直に聞けて、書かれた通り「撮ってくれる」と確認できた。

「とらない」呪文にやられそうになっていたが完全に吹っ切れたので、即動こう。とても楽になった。何よりもこの感覚が薬になると感じた。ポジティブに自分を向けられたことだ。

そして幸い発作はあれから来ない。

さっそくその病院のHPから、一番近い空いている日を見つけて予約を入れた。問診もネットで前もって送った。その際、紹介状の有無をチェックする所があったけれど、もちろん無しにチェックをした。

受診予定は一週間後。

 

わたしの闘い

舌咽神経痛①

 

どこから書けばいいか…

まだ私の心の乱れは治まっていない。むしろどんどん乱れの落差が多きく深くなっていく。

 

私が自分の症状からネットで検索をしたとき導き出せたこの病気、思っていたより診療している医療機関や医師側の記事が多く安心したこと、そしてそれとは反対に病気の当事者の声は少なかった。心細くもなったこと。

自分の置かれている状況を声をあげても否定されるつらさを、また味わうことになった。「もういいかげんやめてくれと!」と何度も叫ぶ人生に参ってしまいそうだったことも。

ブログ上にUPするのはためらわれるけれど、記録として残したいと思う。

 

二週間前(3月27日(日)、夕方、突然の左耳から喉の奥(左側の咽頭)につながる部分に激痛が走り(鼓膜が突き破られるのではないかと思うくらいの痛み)悶絶。パートナーも傍で驚きつつ経過を見ていた。

ドキドキしながら息を止め「どうか収まって」と心の中で唱えた。すると痛みは一、二分で消えてくれた。

耳どうしたんだろうと不安になったが、一過性のものかもしれない…更年期関係かもしれんしなぁと話し(パートナーとのやり取り)、様子をみることに。

二時間くらい経って、また来た。アガガガガ…ぐぅっと息を止めて「どうか、どうか…」

唱えながら、「いったいどういうことだ?何が起こっているんだ?」と「耳に不具合なんて起こったこと無いし、突然って…」考えているうちに激痛は去った。

数日前パートナーに耳かきしてもらったけれど何も無かったし、耳かきで傷つけたことも無かったよねと話し、また来るかもしれんと心づもりをしておこうとなった。

そして寝る少し前に3度目の痛みが来た。それは前の二回より少し軽かった。何が原因なのか分からず、軽く左右に頭を振ってみたらちょっとジリっと左耳の奥に聞こえた感じ…ヒッ、やめとこ危ない…。その後痛みは来なかった。

不安なまま就寝。

その日の夜は何事も無く眠れた。

朝起きて、「よかった。今日は何も無く過ごせるように」と祈る気持ちだった。しかし立ち上がり動きはじめたらやっぱり来た。昨日の激痛よりは少し弱くなっているけれど、アガガ…耳をおさえて待つ。数秒で痛みは消えた。

それから2、3時間後にも軽い痛み、頭を振るとギギギと耳の奥から聞こえる感じでちょっと痛かった。でも痛みは数秒で消える…そのあとは何もなかったように元に戻る。いったい何なのか…

最初のネット検索、耳の痛みで検索したら=中耳炎とかがほとんどで、読んでみても私の症状が当てはまらない。

不安なまま過ぎて

週の最初の透析の日、もし透析中に痛みが来たらそれを伝えて担当ナースに相談しようと思っていた。が、幸いなことに痛みは来なかった。家に帰っても痛みは来ず、透析中の体内の変化、血圧の変化にも誘発されないのだったらあの痛みはもう来ないかもなぁと安堵した。

しかし、翌日の午前中、出かけた時小さく痛みは来たのでだった(だいぶ軽かったけれど)

はぁぁん、やっぱり来るんだなぁと不安になった。

透析日(二回目の)、担当医師にこの状況を伝えて相談しようと思った。

ここからが闘い…その日の担当看護師に先日の耳が痛かったことを話すと、その日の担当医師に診てもらうと連れてきたのが、ああ、この医師じゃぁダメかもなぁ…と思った。つい最近入った男性医師でした。それが院長の息子…。

「耳どうしたの?痛いの?」

私は今までのことを時系列に伝えました。「耳だと耳鼻科かねぇ、どうしますか?耳鼻科」

激痛であること、その痛みが消えるとフツ―に戻ることが何なのかと悩んでいることを伝えるのだが、相手もフムフム聞いているのだが、やり取りしていても、こちらが望む「相談すること」は出来なかった。

結局、耳鼻科へ耳鼻科へと紹介状を書いてもらうことになった(もういいや、諦めの気持ちだった)。

私は耳鼻科に行くのはちょっとちがうかもと考えていた。だから「どこの耳鼻科に行きますか?」と聞かれても答えられず、結局、病院の近くの耳鼻科はどうかということになり、流れでそこへ受診予定となった。

その日の透析、痛みは無く終わった。

 

家に帰って紹介状の入った封書を見ながら、耳鼻科じゃ違うよなぁという気持ちが大きくなっていった。

だから、ネットでしつこく探していた。痛みは来なくなっていたけれど、どんなだったか思い出し、耳から離れて<喉の奥の痛み、左側>で検索をしてみたら、あっさり見つかった。

あった!私のことじゃん!と思うくらいぴったり合った症状、痛みに性別や年齢までも。

病名は「舌咽神経痛」

ほっとした。

でもこの病気はとても珍しいものだということも書いてあった。

透析の日(三回目の)、担当看護師は普段から私の話をよく聞いてくれる人だったので、前回、耳鼻科への受診予定で紹介状も書いてもらったが、脳神経科へ変更を希望していること、理由として「舌咽神経痛」を疑っていることを医師と相談したい旨を伝えた。そして、自分が長らく診てもらっている医師へお願いしたいと強くお願いした。それを聞いた看護師も、その方が話しやすいだろうし以前からの体の状態や病気に向かう姿勢も良く知っているはずだからその方がいいと言ってくれた。

このとき持ってきたiPadで看護師に私が探した「舌咽神経痛」を検索して見せた。症状、年齢、性別等、書かれてあることが合致し過ぎだと驚いていた。

看護師は自分の休憩時間にもPCで検索してみたらしく、こういう病気があるんだ!と思ったと言っていた。そして「絶対先生に見てもらえるように書いておくからね。カンファレンスの時にも仲間に言うからね」と言ってくれた。ありがたかった。

 

週が明けて、最初の透析の日。

今日こそ話が通って自分の希望の病院へ行けると思っていた。

なのに…

 

相談したいと指名した医師は、私のベッドの前を何往復もしていたが、とうとう話を聞きに来なかった。

しばらくして来たのはあの息子医師だった。ガックリ…「耳どうですか?」と。

「耳鼻科には行っていません。先日担当のナースに私の希望を伝えたんですが…」という私に、彼は「ああ、でもまず耳鼻科に行ってもらってというかんじかな」「うんうん、希望ね…聞いた。でも、耳鼻科だと思うよ。耳の痛みだし」と言う。

そして「痛みはその後、無いんだよね。痛みがあったのから一週間だっけ」と。

私は彼の言葉を聞きながら諦めていた。やっぱりか、スムーズに行かないいつもの自分の運命にため息が出た。

でも、反射的に出た私の反論「はあ?一週間?経ってませんけど!5日です!」と。

反応できた自分がいる。運命かと諦めてイヤな音を聞かないモードにしていたけれど、訂正させたのだ。自分をよくやった!がんばった!と褒めた。

しかし息子医師は「まず耳鼻科に行ってくださいね。脳神経外科に行っても今の感じだったら、とってくれないと思いますよ。○○先生とも話したんですよ。その意見でしたよ」と言う。

私の相談を希望していた医師も同意見でしたよと念を押して言う。

ガーン「とってくれない」とは?。一瞬でMRIとか画像診断のことだなと私は解釈して「そうですか。」と答えた。諦めと言うより見切ったという感じだった。

そして「先生、では痛みが来たらどうすればいいですか?」と聞いてみた。すると「数十秒なんだよね 痛いの。」と言ってきた。

もしやそう応えるんじゃないかと思っていたが、出た!言いやがった!(怒)

最悪の応えだよなぁと思ったのでした。医者かこいつと思った。

念押し気味に「じゃあその時は我慢してということですか?」と聞き返した私に、まあそうだねという感じ頷きつつサッと彼は去って(逃げてw)行った。

相談したいと希望していた(ちょっと信頼していた)医師にも幻滅した。

でも、即私は立ち返った。

そうだよ、今まで自分が受診したい病院には直に行ってたじゃないか!「とってくれないと思います」って?ありえないだろ!行けばいいんだ!

素早くそう思えた自分は強くなっていると感じた。ネガティブな沼にはまり込まないようにできたんだと。

 

そして次の透析から毎回看護師に「耳鼻科の受診、しましたか?」と聞かれるようになった。そのつど「行ってません。耳鼻科では無いと思うので」「自分で行きます」と答えた。看護師は困った様子。「もうその件については答えないので、行かないと書いておいてください」とちょっと意地悪な返事もした。