よんな~便り

ひっそり活動継続ブログです

なんだかんだで〜4月28日に思ったこと〜

 

 

いや〜 久しぶりにログイン出来ました。PCが古くって変になっちゃって触るのが億劫に…

その間、はてなブログのパスワードも何だったか忘れてしまうという。気持ちが向かわないとソッコーで記憶が消えてしまう傾向にある私でございます。

前回のブログ記事からどのくらい経つんだろう。

ぼちぼちでまた書ければいいなぁと思っています。

今日は先日砂川さんのメルマガに掲載された文章をこちらに。

ちょっと足したこともあります

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4月28日に思ったこと

 

あゝまたこのイヤな響きが目に耳に入ってきた。ニュースの項目に「屈辱の日」というタイトルが並んでいる。

私は、この「屈辱の日」報道に違和感を感じています。

夕方のローカルニュースで「今日4月28日は『屈辱の日』です」「1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し敗戦後、米軍統治下にあった日本が主権を回復した一方、沖縄は日本から切り離され、米軍統治化に残されました。」と説明があり、続けて「屈辱の日と呼ばれるこの日から71年経ちましたが、日本におけるアメリカ軍専用施設の70.3%が置かれた沖縄の過重な基地負担は変わっていません。」と言っていた。ここ数年子の報道を う〜む、知らなかった。私が学生の頃は平和教育も盛んだったのに、「屈辱の日」という言葉は一度も聞いたことがなかったなぁと思うのです。

 

実は私が4月28日が「屈辱の日」と呼ばれていると知ったのはピンクドット沖縄の活動をしている頃です(なので10年くらい前か?)

地元新聞に太文字で屈辱の日と書かれてあるのを見たときです。ギョッとして、気持ち悪さと怖さに襲われ吐き気がするほどでした(今でも同じく反射的に吐き気が…)

 

基地反対の県民大会のことを取り上げていた記事でした。「屈辱の日」すごく攻撃的な言葉だと感じました。私は県民大会に一度参加したことがありますが、その時には「屈辱の日」なんて言葉は聞かなかった記憶です。

調べてみると、<サンフランシスコ(対日)講和条約が発効した1952年4月28日について、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)は61年4月8日の第3回定期総会で「屈辱の日」と呼ぶことを決めた>とありました。でも、その後「屈辱の日」は浸透しなかったのだと私は思いました。

 

私の記憶(感覚w)では「屈辱の日」が広く知らされるようになったのは、翁長雄志氏(那覇市長の時)が基地反対運動を活発にするようになったことが大きいと思っています。

翁長氏が東京でオスプレイ配備の抗議行動でパレードに参加した際に「売国奴」「琉球人は日本から出て行け」という罵声を浴びせられ憤慨した件がありました。沖縄に対する罵倒を知った県民の怒りは頂点に達し連日その話題が取り上げられていました。

ゴリゴリ保守の翁長氏なのに、東京で受けた酷い言葉。「衝撃を受けた」とインタビューに応える翁長氏…

それを聞いた県民(翁長氏反対の人たちも)が、翁長さんも同じ悔しい思いを味わったんだなと悔しさを共有できたことで、運動が盛り上がったと思います。そこで「屈辱の日」という言葉が甦ったんだと思いました。その後、翁長氏はウチナーンチュアイデンティティーを全面に出して県知事になりました。あんなに敵対していた人たちが翁長氏こそが私達の言葉を伝える人だ!平和を願う人だと。一枚岩という表現もよく使われるようになりました。

ウチナーVSヤマト色が強化されてしまったと思います。毎年4月28日は「屈辱の日」と、メディアで取り上げられるようになってしまいました。

「屈辱の日」

私はこの言葉は使いたくありません。「屈辱」という言葉の意味を調べても違和感だし、その言葉が今の沖縄が置かれている状況に合うのか?と素朴に思うし、民族主義を煽る言葉になるのではと思うのです。

掲げる言葉は力を持つ、慎重に考えなければいけないと思うのです。

 

追記

2013年の4月28日、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典を政府が開催、抗議大会として「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」と新聞記事を見つけました。私の見たのはこの記事だったんだなぁ