よんな~便り

ひっそり活動継続ブログです

十月十日

今日は10月10。 私のイメージは2つ浮かぶ。

一つは、まだ「体育の日」という感じです。 2000年にハッピーマンデーが導入されて、10月の第2月曜日が体育の日になった。ハッピーマンデーって、土曜の休みと合わせて3連休を作って、充実した余暇を過ごして欲しいとかなんとか…。連休で余暇とか…生活もキビシイこの国が。

もう一つは、沖縄では10月10日は十・十空襲があった日。そう記憶されている人も多いと思う。74年前の戦争の時、米軍のアイスバーグ作戦によって爆撃の雨が降らされた。

沖縄なんて、ほんとに小さな島だ。

その島で一番の街の那覇が(いちばんって言ったってごく小さな街)瓦礫と、焦げた土の地になった

それからまだ100年も経っていない。 そう考えると、いつも思うのが、戦後たった26年で私はこの地に生まれてきたのだということ。 私が物心ついた時には現代の暮らしができる環境だった。 祖母と、その娘の母と父とすぐ下に弟。家もあったし、電気もあったし食べるものもあった。  

 近所にオジィとオバァが住んでいる家があって、なぜうちにはオジィがいないのか?と祖母聞いたら、「戦争でフィータイ(兵隊)に取られて、死んでしまったよ」と教えてくれた。それが私のはじめて聞いた戦争体験の話だっただろう。 その後も「オジィは壕で休んでいる時に、頭に弾の破片があたって、座ったまま亡くなったって」とか、機会があるたびに語ってくれた祖母が、私の一番の戦争体験を伝えてくれた人だ。

 

那覇が十・十空襲に襲われている時、祖母たちはどこの地を逃げ惑っていただろうと想像する。 私はパートナーとともにこの社会を生きている。 今年のこの日、ふっと パートナーは那覇の出身だ。パートナーの両親も那覇の出身。 あの空襲を彼女の祖父母がどうやって生き抜いたのか…と思った。 朝ごはんを食べながら、 彼女に、どうだったんだろうね?と聞いてみたけれど、祖父母から戦争のことを聞いたことはないようだ。以前にもそういう機会があって彼女に聞いたけれど、やはりそんな感じだったっけ… 同時に、何故今まで、そういうことを思い浮かべなかったのか?と思った。 そして、彼女の祖父母はどちらの方も、戦後、健在だったからかとなんとなく納得した。 でも、健在だったとしても、戦は誰の上にも降っただろうに…思いが至らなず、すまない気持ちになった。

彼女に、お父さんお母さんが生きているうちに、聞いてみようよと提案した。 彼女はこれまで全然そういったことを聞いて来なかったらしいので、今更どうやって…と言うようなちょっと困った感じだった。 祖父母はもういない。 だから、「両親にさー、一緒に食事しに行った時にでも私が聞き出せばいいんじゃない?」と言った。 彼女も、「ああ、良いね」と乗り気になった。

彼女の両親とは、たまに食事に出かける。

それが彼女には嬉しいことだから、提案にも賛成してくれた。

彼女も知らない話が聞けるはず。 2人で、へぇ〜って言ってる様子が浮かぶ。

いつになるかわからないけれど、忘れずにいようと思った。 そして、生き延びてくれたから彼女と出会えたのだと、彼女の祖父母に感謝の気持ちで手を合わせた