よんな~便り

ひっそり活動継続ブログです

身構える時

 

2ヶ月まえに保留したままになってた文章、UPしときます

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私は紙の新聞を購読しているのだけど、最近はもっぱらiPadに送られて来た記事を読んでいる(紙の新聞を購読している読者は登録すると電子版がタダで見られるのです)
でも、ほとんど見出しだけチェックしたら記事は読まずにスルーなんですw
その電子版新聞が週一で配信しているニュースレターがあって、
そこでしか読めないという新聞記者の書いたコラムが載っている
さて、4月のコラムで目に止まったタイトル
『ズボンをはきたい』
今回のコラム、学芸部くらし班の記者(女性)が、自身の子とのやり取りを書いていた。
制服選択の制度や配慮の広がりやトランスジェンダーの人たち(生徒達)が変えて来た社会についてを伝える内容だったけれど、私が気になったのは、家庭内での親子のやり取り。

記者が長女の中学の入学式に行った時に声をかけて来た子がいた。長女の同級生<女の子だった>だった。
が、その子は髪を短く刈り上げてズボンの制服を着ていた。明るく声をかけて来たその子に驚いている感じの記者。

その子と会ったことを記者(母)が家庭内で娘に「〇〇ちゃんズボンだったね」と話しかけたところ「別にいいじゃん?めっちゃ似合ってたし」と答えた娘のシーン。
あ〜あってなった。「娘の即答、これは身構えたんだろッ!」と思ったのでした。

そして読み進めてもっとあ〜あとなった私。

記者(母)の言葉に対し食い気味に答えた娘だったのです。が、その口調・答えに対し、<反抗期に足を踏み入れた娘の「だから何?」と言わんばかりの反応>と書かれてあったから。ガックシ。
親子の普段からの会話を想像した。母親の思い込みあるはずなぁと。

記者はその後、子供達は(自認に沿った友人に好意的な娘たちのこと)フラットに、柔軟に物事を捉えていて頼もしいと成長を喜んでいる、そして自分は記者として多様性尊重や生き方の選択のことを取り上げているのに心もとないとも書かれてあった が…

エエ?これで良いのか?と思った。

友達に浴びせられる言葉やバイアスに、庇いたい気持ちがはたらき身構えた娘の口調を

反抗期特有のものとした母。

社会の抑圧がここにも(家庭内)あると認識している娘なんだな。
それを「反抗期」とかそんな一般化した認識を持ち出す記者(母)を残念に思った。

この記事のことを書く前に、パートナーにもコラムを読んでもらった。自分じゃない意見を考えてみたかったから。サッと読み終わって、1番気になったところは?と聞いてみたら、やっぱり同じところだった。そして私より憤慨していた。私は物心ついた頃からセクシュアリティーやジェンダーに関することで「身構える」ことをしてきたから、パートナーが共通の思いをしたことに安堵した。
「そりゃ親のこと娘は見てるわけでしょ」とパートナーが言った。「だから身構えたんだよ」と。

で、2人して
「〇〇ちゃん、ズボンだったね〜似合ってたよね」と言っていれば変わったに違いないと話した。
もしかしたら「似合ってたよね」という言葉は原稿上の都合で割愛されてたのかも?と私が言うと、いや、「この文章は、普段からの様子が伝わるものだよ」とパートナーが言った。
そうだね。記者が仕事で向かう社会と家庭内での社会が違うんだよね。と2人して納得した。


コラムではこの娘とのやり取りをきっかけにして後半、トランスジェンダーで活動している人を紹介していて、制服選択の制度はトランスジェンダーの人たちが声を上げて身を結んだ結果の一つと伝えていた。
そしてその成果を導入した学校では、今や性的マイノリティに限らず、便利がいいとズボンを選ぶ子達も増えていると紹介し「マイノリティに優しい社会は、マジョリティにとっても優しい社会」と言った杉山文野さんの言葉も紹介していた。

しかし後半の件までに、私たちの心は冷めてしまっていて(イヤ、むしろ熱くなってたかもw)
関心を持っているよと伝えたい文章でも、世間向けの(薄い世間だなw)社会観にしか受け取れず…。残念でした。ピンクウォッシュな記事?と思ってしまうな(苦言を呈します)


社会を変えて行く力は個人個人が持っていると信じているけれど、新聞記者ってその力は市民個々人より強いと思う。でも、最近は「職業でやってる」のかもしれんなと思うようになった。さて今回、この出来事であらためて同じ思いを共有できることの大切さを実感した。

パートナーに感謝だ。

「娘」よ がんばれ!